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シャネルの孤独と出会いの交差点

シャネルの本を手にして読んでみたら、あまりの壮絶な人生に驚きと感動と悲しみを覚えた。シャネルが大好きな私としては、シャネルのことをもっと知りたくなりちょっと調べてみました。

孤児院に捨てられた離散した兄弟姉妹たち

シャネルは1883年8月19日にフランスのソミュールという街で生まれた。シャネルは5人兄弟の次女として生まれている。父親は作業服、下着を販売する行商人で、シャネルの母が死亡して、兄二人は牧場に、三姉妹は孤児院に預けられます。

父親は「アメリカで一旗あげて迎えにくる」と言って去っていたが、2度と帰ってくることはありませんでした。事実上、捨てられたのです。

数多くのジャーリナリスがシャネルに取材しても、孤児院での生活については何も語っていません。

修道院が経営するオーバージーヌ孤児院は、今でも存続しており、数多くの人が取材に訪れていますが、孤児院にはシャネルの三姉妹の記録は全く残っていないのです。シャネルは、金で過去を消し去ったと考えられます。

孤児院でお裁縫を学んだことが、シャネルがファッションに目覚めていくきっかけになったのは間違いないと思います。当時の孤児院では、読み書きよりも、孤児院卒業の18歳までに手に職をつけて送り出すことに専念していたのでしょう。

オーバジーヌの孤児院を18歳で卒業となり、シャネルはカトリック女子修道院に預けられます。6年間裁縫を学んだシャネルは姉と共に、仕立て屋に就職します。お裁縫の仕事で稼ぐ金だけでは食べていけず、夜はキャバレーで働きます。

キャバレーでは恐ろしいことに、給与は出ないのです。テーブルを周りお客さんからチップを受け取りそれが報酬になるのです。

シャネルはキャバレーではたった1曲しか歌えませんでした。Qui qu’a vu Coco ? ココはどこに行ったの?この曲しか歌えず、「COCO」というニックネームで呼ばれるようになります。

これがココシャネルの名前の由来なんです。

シャネル 運命の出会いが待っていた

このキャバレーで知り合ったのが、大富豪のフランス陸軍大尉エティエンヌバルタンで、彼の家に居候することになります。結果的にエティエンヌ・バルタンの愛人になるのです。

バルタンの趣味は競馬で、バルタンからシャネルは乗馬を学びます。シャネルは、乗馬ができることが、その後のイギリス貴族との大恋愛に大きなアドバンテージなるとは思ってもみなかったと思います。

バルタンの家でパーティーで運命の出会いがありました。

アーサーボウイカペルというイギリス人と出会います。カペルはイギリスの孤児院出身だったことで境遇が、シャネルと同じこともあり二人の距離は急激に縮まります。

バルタンとカペルのシャネル争奪戦が激化することになります。

カペルはイギリスで炭鉱ビジネスに成功していて、バルタンはカペルの事業に投資していた友人です。

カペルはシャネルをパリのアパルトマンに住まわせて、シャネルの最初の店舗の出資金もカペルが出すのです。

相思相愛の二人でしたが、カペルは政略結婚を選びます。カペルはイギリスの男爵家のお嬢様と結婚します。シャネルはショックどころではなく、落ち込み塞ぎ込みます。

ところが、結婚後も公然とカペルはシャネルと交際しており、パリに仕事でくるカペルとの生活は夫婦同然だったのです。

カペルの資金で避暑地ドーヴィルで店舗を開き、ここでジャージ素材を使った服を販売。これが成功して、ピアリッツに店舗を展開してヨーロッパの富裕層にシャネルの服を販売して大成功します。

この成功でカペルに借りた操業資金を返済できるぐらい稼ぐのです。

カペルは社交的で交友関係が広く、カペルがパリで通っていたサロンの経営者が、ロシア人のミシアセールです。ミシアはシャネルの大親友になります。

ミシアセールのサロンに通ってきた芸術家は、ジャンコクトー、ピカソ、ダリなど当時の芸術家としてスーパースターがメンバーでした。

ピカソ、ダリのパトロンがシャネルであることは、あまり知られていないのかもしれませんね。

特にピカソにはシャネルがプロポーズしてますが、ピカソに断られています。

シャネル人生最大の失意 カペルの事故死と新たな出会い

突然の別れがやってきます。

カペルは自動車運転中にカーブを曲がりきれれずに、木に激突して死亡しました。

バルタンの運転で事故現場に行ったシャネルは、一日中事故現場の木の下で泣いていそうです。人前で泣いたのはこれが最初で最後とシャネルはのちにポールモランに語っています。

ポールモランはシャネルが唯一過去を語った友人で、新潮社から本が出ています。

最愛のカペルの死で寝込んでいたシャネルを部屋から連れ出したのは、親友ミシアでした。シャネルとベニスに傷心旅行に行くのです。

ベニスであるロシア人貴族の夫人と知り合います。婦人がつけていた香水に虜になってしまったのです。当時のフランスの香水は薔薇の香りなら薔薇だけの一つの香りを香水としていました。ロシア人貴族がつけていた香水は、複数の香りをブレンドしている複雑で高貴な香りがするものでした。

ロシア人貴族から調香師を紹介してもらい、シャネルにサンプルは20種類到着します。香りを確認することなく五番の香水をシャネルな選びます。シャネルにとってはラッキーナンバーだったのです。

このシャネルの5番という香水が、シャネルに莫大な富をもたらします。

バルタン家に遊びに来るご婦人たちの帽子のデザインと製作から始まり、ジャージ素材で服を作り、女性からコルセットの呪縛から解放を行ってきたシャネルの事業は、服飾だけでなく、宝石、アクセサリーと事業を拡大します。パリのカンボン通りの店舗も拡大していきます。

このカンボン通りに今もシャネルの本店があります。

 

労働争議の対応とシャネル逮捕

順調に事業が拡大してきたわけではありません。労働争議でストライキに突入したシャネルの社員に対して、シャネルは全員解雇という対抗手段で応戦します。

香水と宝石事業以外は休眠させるのです。

第二次世界大戦のフランスはドイツに占領されます。この時にシャネルはナチス親衛隊将校を愛人として交際していた。

そのため、パリ開放後の懲罰委員会はシャネルに逮捕状を出し、ホテルリッツでシャネルを逮捕。しかし、間髪入れず釈放されます。

シャネルはスイスのジュネーブに亡命するのです。

本来だったら、ナチスの親衛隊青年将校を愛人にしていたシャネルは、最低でも禁固刑、最悪の場合は終身刑になっていたはず。

それが簡単に釈放されたのは、シャネルの政治力以外にないと言われています。

シャネルは、戦争が始まる前に世界一の金持ち貴族「ウエストミンスター公爵」と交際していました。この公爵は世界有数の金持ち貴族で、現在でも総資産3兆円に迫るすごい資産を誇るイギリス貴族です。

今の、ウエストミンスター公爵は1991年生まれ。シャネルと交際していた公爵から数えて3代目なんですけどね。

父親から相続した資産を2倍にしたらしく、総資産約3兆円の大貴族にアポローチする女優がたくさんいるそうです。

ウエストミンスター公爵からチャーチルに電話が入り、チャーチルからドゴールに電話が入って、シャネルは高度に政治力によって釈放されたと言われています。

釈放後もフランスにいたら殺されると悟ったシャネルは、スイスのジュネーブで亡命生活を送ることになります。

 

一通の電報がシャネルを帰国させる

「ミシア危篤 すぐにパリに戻られたし」

この電報は、シャネルを飛び起こさせました。

シャネルは荷造りをして、パリ行きの寝台特急に乗り込みます。

飛行機で返ったら入国審査で逮捕されるかもしれないと思ったからでしょうね。

寝台特急列車での通関は、パスポートの表紙をみるだけ。

シャネルはノーマークで通過しました。

病院に直行するとミシアが起きています。

「やっときたね。あんたね。そろそろ返っておいでよ」

「大丈夫なの」

「なんとかね。でも、みて」と雑誌を見せるミシア。

クリスチャンディオールが「ニュークラッシック」と称しして、またコルセットの古典回帰。

ミシアからの要請で「クリスチャンディオールを潰して」というミッションがおりました。

そして、シャネルがクリスチャンディオールを潰すために快進撃を開始します。

その時、シャネルは69歳。

クリスチャンディオールとの一騎打ちが始まるのである。

クリスチャンディオールの弟子には、ピエールカルダン、サンローランがいました。

シャネルはたった一人で立ち向かっていきます。

 

続く